全託について

 1.万物と共に生きる自己

 
大半の人々は、自分の力で生きていると思っているようですが、果たしてそうでしょうか。
 このことを真剣に考えない人がいることが不思議なのですが、現実の社会を見ていると、少しは考える人はあっても深く掘り下げて考える人は余りいません。そんな面倒臭いことは私はごめんこうむります≠ニいう人が多いようですが、はい、そうですか≠ニ同意するわけにはいかないのです。それはどうしてかと言いますと、その人が認める認めぬに関係なく、人間は神様の分けられた生命であるからです。神様の全能全智なる御力を有している生命を限りなく発現していくことが大生命(神)のご意志であるわけで、それに素直に沿っていきませんと、自我想念が生命を妨げるという形になりまして、肉体側としては苦しい状況に陥ってしまうわけです。

 前置きはこれ位にして本題に入りましょう。
 肉体生存の根本である呼吸(いき)を自分の想いでコントロールしている人がいるでしょうか。吐く息、吸う息を訓練で少しは長くできる人はありますが、一時間に一呼吸しかしないという人はいません。自然に息をしているというか、奥のいのちによって、してもらっているというのが真実なのです。血液の循環や各神経の働き、五臓六腑の活動、肉体のすべての活動は、決して想いが命令しているのではなく、自然に為されているのです。この「自然に」ということは何かというと、生命と守護神様のお働きということになります。イエスの云う「汝等のうち誰(た)れか思い煩いて身の長(たけ)一尺を加え得んや」という真理のコトバは、今書いたことを指しています。

 もう少し範囲を広げましょう。
 私達人間は、地球という星の上で生活しています。当然のことながら、空気を吸い、水を飲み、野菜や魚肉を食して、その存在を保っているのです。地球は、地球霊王という神様の物質体です。単なる物ではありません。太陽の光は万物、万人を育む源であり、太陽の存在なくしては、地球上のすべては存在できないのであります。太陽も物質的な光のエネルギーを出している物ではなく、太陽神という神様の物質体なのです。空気や水の存在がなくては、人間は一瞬たりとも生きていくことは出来ません。野菜や穀物、魚や色々な動物の肉を戴くことによって肉体が保たれているという事実をしっかりと見詰める必要があります。

 ここまで考えてきますと、自己というものは宇宙万有と一つになって生きているのだということを認めないわけにはいきません。


 2.元々「他力」なり

 
肉体人間というものは、内に神様の生命によって、生かされ、外界の万物のいのちの力によって支えられているわけで、元々「他力」ということになります。こう申しますと、人間は思考力をもって様々な物を創造してきたではないかと威張る人もいるかも知れません。がしかし、その思考力という智慧能力の働きは、万物に息といのちを与えている大生命(大神様)から流れ出てきているのであります。

 そういう根本の在り方を見詰めてみますと、肉体人間というものは無に等しいものであって、何事も「他力」の恩恵によって、その働きが為されているということが分かります。肉体側の自分として為さなければならない最も重要なることは、「生かして頂いてありがとうございます」という感謝の心です。この世でも誰かに物を戴くと、「ありがとうございます」と御礼を言います。一千万、一億というお金を戴いたら、涙を流して喜ぶ人も多いのではないでしょうか。それは確かにありがたいことなのですが、地球や太陽や水や空気の体恩(たいおん)、他の生命によって支えられて肉体身が生存できるありがたさは、どれだけ感謝しても感謝できるものではありません。「ありがとうございます」という一言のもつ言葉の深い意味合いをしっかり捉え、感謝一念の生活を送っていく人こそ、光明生活を生きる人であります。人間は誰も彼も、神より来る生命であり、守護霊様、守護神様(※)という救済の神霊方によって守られ導かれている「絶対大丈夫」な存在なのです。

 神様は愛なのです。我が子である人間を苦しめようとはなさいません。この世の苦しみや悲しみ、不幸な出来事が起こるのは、決して神様が罰(ばち)を当てているのではありません。それは、肉体人間としての過去世から現代に至る誤まてる想い、即ち、自己が神様(完全無欠、全能全智)とは別々のものであるという所から生じた想念行為の積み重ね(業・カルマ)が、守護神様のみ光によって浄められ、消え去る時に起こる姿なのです。このことは決して、生命から発しているのではありません。また、慈愛なる守護霊、守護神様から出ているのでもありません。過去世で作ってしまった業が消え去るために、表面上に現れでたのであります。溜まったカスが肉体に現れたということは、それだけ内部の光(生命)が肉体上に輝き出したわけで、何事が表面に起こってきても恐れることはないのです。肉体人間を守っておられる守護の神霊に素直になっていれば、過去世の業は小さい形で浄められ、自己が神様の生命そのものであることが速やかに体覚されてきます。

※守護霊・守護神 個人専属の神霊。守護霊は祖先の悟った霊人。守護神は、守護霊の上位にあって、人間を守っている救済神。


3.「世界平和の祈り」の大光明に任せきる

 
『世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈る楽しさ』という五井先生の短歌にありますように、「世界平和の祈り」は大神様そのものであり、無限の大慈愛であり、大光明の世界なのです。各人の生命の基は大生命であると同時に、人類救済の大光明である大救世主の世界でもあるのです。守護霊、守護神様に感謝することを根本に「世界平和の祈り」をするということは、大神様にすべてをお任せする、最も易しく間違いのない全託への道なのです。明日の生活のこと、今日の仕事のこと等、この世の生活に把われる想いのすべてを一度(ひとたび)は「世界平和の祈り」の大光明に投げ入れ、改めて神様の方から運命を頂き直していくようにしていけばいいわけです。

 「世界人類が平和でありますように」の大光明の世界には、主なる神様を中心に、あらゆる宗祖、聖者、賢者が総結集され、地球人類が一日も早く神性自覚の道に入っていくことを願っておられます。神性を自覚するということは、自己は神の生命であり、無限億万年生き通す永遠の存在であることを体覚するということです。人間の救い、魂の救いというものは、ここにあるのです。「世界平和の祈り」というものは、表面上いかなる事が起こっていようとも、祈る自己は大光明の中にあるのでして、何とも筆舌に尽くしがたい光り輝く世界なのです。

 今や地球世界は、「世界平和の祈り」の大光明に包まれているのです。今日(こんにち)ほど全人類が魂の救われを体覚できる時代はありません。この魂の飛躍の最大のチャンスに一人でも多くの人が大光明世界に入っていくことは、それだけ真の世界平和、地球世界の調和を早めることになります。天の中心者と心を一つに生きることほど、楽しいことはありません。過去世に作った誤まてるすべての想念を過去の因縁の消えてゆく姿と観じ、神様だけを相手取っていくという神一筋の生き方をする人こそが、これからの地球世界の真のリーダーとなり得るのです。

風韻誌9号(2004年9月)収録

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