霊能のある人がよくテレビなどで話題になりますが、霊能者と霊覚者の違いについて教えて頂けますでしょうか。

 一般に霊能者と言われる場合、五感に感じない事柄が見えたり、他界にいる人の声が聞こえたり、未来の予知や自動書記(※)が出来たりする人のことを指しているようです。そういう人は、程度の差こそあれ、過去世において霊能力開発の修行をしてきているのですが、その人の人格の高低によって、その内容が全く違うのです。

 これらの人に共通するのは、幽体(霊体と肉体の中間にある波動体)が普通人より大きく、他界の細かい波を感受しやすい体質を持っているわけで、それが霊眼や霊聴、霊言となるのです。人格の高度な人であれば、高い霊界や神界の波を受け、深い智慧を受け取り、人々の本心開発のための助言や浄めが出来るようになるのです。
 これとは反対に、自我欲望の満足のための霊能開発の修行をしてきた人格の低い人は、幽界という低級界の波動のみをキャッチするので、周囲に低く卑しい波を感じさせるのです。人に迷惑をかける予知を平気でしたり、人の弱点につけこんで、その人の自由を縛るというようなことになるわけです。
 それでは、霊覚者というのはどういう存在であるかを説明していきたいと思います。霊覚者と言われる方でも、それぞれの天命の違いによって、その特性は異なります。霊覚者とは、言葉を変えれば、正覚(しょうかく)を得た人、神人合一の境地に到達した人ということです。自己が大宇宙を動かす大いなる知慧者と全く一つであることを真実、体覚した人で、何事何物にも把われず、神体の智慧のまま自在に大光明を響き渡らせている存在者です。
 この霊覚者の中には、神通力を自在に駆使した釈尊やイエス・キリスト、日本の役行者や空海のような方もおられます。ヨガ行者にも、このタイプの方はたくさんいるのです。その反対に、表面的にはそういう形を取らないで、本心そのままの響きに成りきって道を説かれた方もいます。中国の達磨大師や禅の祖師方、日本の道元さんもそうですね。また、絶対他力に徹しられた法然さんのような方もいらっしゃいます。老子さんのような、大生命そのままの大聖もあります。宗教家ではありませんが、武道を通して霊覚を得られた、神人植芝盛平先生のような方もおられますし、バッハのように音楽の道を通してその境地に達せられた方もいるのです。
 いずれも、自我の想念を完全に抜け出て、本心そのものになられたわけです。本心・神我になりきった人は、守護神そのままの力を発現し、大生命の無限力を自由自在に現しきったのであります。地球世界の業想念波動を浄め、大光明を地上界に流しいれ、人々を本心開発の世界に導き上げたわけです。
 私たちは、五井先生への道、全託への道、世界平和への道を一筋に歩んでいくわけで、その途中で霊能力が現れてきても、それに把われず、「世界平和の祈り」の道という霊覚者への道を歩んでいることを深く自覚して頂きたいと思います。


※自動書記 交霊現象のお筆さき。霊媒が自分の意志ではなく自動的に字を書く現象。

風韻誌14号(2005年9月)収録


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